今回は、戦国武将に人気があったお医者さん、曲直瀬道三(まなせどうさん)と「三本の弓の教え」で有名な毛利元就についてお話させていただきます。
道三といっても「美濃のまむし」といわれていた斎藤道三とは別人で、戦国時代に有名だったお医者さんのお話です。
この物語に、健康の秘訣が隠されています。
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戦国時代の医学
戦国時代は戦(いくさ)が多かったため多くの負傷者が続出していたので、医学はとても重要だったと思うのですが、混沌とした時代だったためか、戦で負ったケガの治療も、止血にドクダミや梅干しなどを使うといったとてもお粗末なものだったそうです。
このように近代的な医療が一切行われていなかった時代に道三は、東洋の伝統医学や西洋の南蛮医学を学びながら、歴史や儒学の学習にも力を注いだそうです。
日本人のための医学
道三は、日本人と大陸(おもに中国)の人は生活環境も食べ物も異なっているので、体が違っているのが当然で、病気の治療法や日常の健康法も同じではないという信念を持っていました。
東洋の伝統医学や西洋の南蛮医学に精通しながらそれを盲信せず、日本人のための医学を追求していました。
道三の著書に「日本人は水稲を育て、大豆から味噌を作り、海でとらえた魚を食べている。これらは体に熱を与え温めてくれる。生薬の中で体を温める作用が強いのが高麗人参だが、日本人はつねに高麗人参を食べているようなものだ。これに対して大陸の人は陸稲を食べ、海の魚を捕らえることがめったにない。だからこれを補うために鳥や獣の肉を食べるのだ。つまり、日本人が大陸の人をまねて肉を食べる必要はない」と書いてあります。
極論ではありますが一理ありますね。
戦国武将に信頼された道三
東西の文献に通じ、徹底的な観察力と思索力を持っていた道三は多くの戦国武将に信頼されていたようです。
室町時代末期に活躍した細川晴元、三好長慶、松永久秀や、戦国時代が生んだ英傑、織田信長なども道三の診察を受けたとの文献が残されています。
また戦国武将だけではなく、室町幕府の将軍足利義輝や正親町天皇にも治療をほどこしたそうです。
毛利元就
「三本の矢の教え」で有名な毛利元就も道三に何度か治療を受けた縁で親交が深かったそうです。
道三は元就に次のような助言をしています。
「常の食 四時に順じ 五味を和し 飽に及ばす または飢えざれ」
これは、日常の食事はそれぞれの季節の旬のものを、バランスよく偏らず食べなさい。飽きるほど食べるのは避け、また空腹をがまんするのも良くない。という意味です。
“四時”とは四季のことで、”五味”とは酸味、苦味、甘味、辛味、塩辛味のことだそうです。
元就は、中国地方の大部分を治める大名になっても、道三のこの助言を守り、決して贅沢はせず、それぞれの季節の食材をバランスよく摂っていたそうです。
節酒の心得
元就は毛利氏祖先の歴代が酒よる害で早死にしている事を熟知しており、自身はお酒をほぼ口にせず、家族にも酒は分をわきまえ、酒によって気を紛らわすことのないようにと節酒の心得を説きました。
事実、元就の祖父は33歳、父は39歳、兄は24歳という若さで亡くなっています。3名とも酒を飲む量が多かったそうです。
元就の跡取りである嫡男隆元は元就より先に40歳で亡くなりましたが、孫である輝元は当時では高齢の73歳まで生き、豊臣秀吉の時代に五大老の一人として名を連ね、毛利家の存続に尽力しました。その毛利家が江戸時代に治めていたのが長州藩で、幕末には薩摩藩と並びとても強い力を持った藩の一つになりました。
代々の藩主だけでなく藩士たちも道三の助言を守っていたのかも知れませんね。
三本の矢の教え
これは余談ですが、「三本の矢の教え」とは、死ぬ間際の元就が3人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せて説いたといわれている教訓です。
元就は最初に1本の矢をそれぞれ息子たちに渡して折らせ、次に3本の矢の束を折るように言いました。息子たちは3本の矢の束を折ることができませんでした。
このことから元就は、1本の矢は脆いが、3本の矢の束になれば頑丈になるので、3兄弟の結束を説いたという有名な話です。
しかし、前述の通り嫡男の隆元は元就よりも早世しているので、これはあくまでも逸話であるといわれています。しかし元就が書いた「三子教訓状」にはその旨が書き残されているそうなのであながちすべてが作り話ではないようです。